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偏見の無い世界

by くのたん

前の記事で、「偏見を無くすには、興味を無くすしかないような気がする」と書いた。

最近ネットを見ていると、「偏見を無くそう」と言っている人が、どんどん先鋭化しているように感じる。

偏見を無くそう、と訴える人は大抵、「自分は偏見を受けている」と感じている人だ。

偏見を受けているから、無くしたい。そんな感じである。

でも最近思うのだけど、「偏見を無くそう」と訴えている人って、普通の人達から、距離を置かれ始めているように見える。

こういう人達とは関わらないほうが良い。そんな風に、一般の人に見られている。

自分たちは、偏見によって深く傷ついている。という自覚が強すぎて、被害者意識が強すぎて、そんなところから、自分たちの意見なら、なんでも通って当然だ。それが社会にとって良い事なんだ。

そんな風に思っているように感じる。

多分「偏見を無くそう」と言われると、潜在的には、「興味を持つな」と言われていることと同じになってしまう。だから、距離を持たれるのだと思う。

以前から、薄々気が付いていた。偏見を無くそう、差別を無くそう、という言葉に、「人の分断」が隠れているということを。偏見を無くすには、その人への興味を、完全に無くすしかない。皆が家に引きこもって、他者と接触を避けるしかない。

だからこの言葉があまりにも広まれば、私達はバラバラにされる。

偏見の目で見られたことが無い、なんて人はこの世にいない。私はそう思っている。

芸能人だって、いつだって偏見の目で見られている。

テレビの自分と、本当の自分の乖離に戸惑っている人も、おそらく多いことだろう。

1000人の人がいれば、1000通りの偏見がある。

誰だって、誰かに誤解され、好意を持たれたり、嫌悪感を持たれたりしながら、生きている。

人付き合いって、そういうものだと思う。人に見られるって、そういうこと。

偏見を持たれている、というのは、関心を持たれるのと一緒だ。

そう考えれば、偏見も悪くない。

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