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道徳的に良い生き方が魂的に良いとは限らない

by くのたん

一般的に、「自分以外の存在の為に生きる」という生き方は美化されやすく、好感を持たれることが多い。
家族のために、子供のために、国のために、自分以外の誰かの為に生きることは人として立派だとされる。

こういう生き方は他人から感謝されやすいし、自分が生きていることに価値を見出せる気がして一時的には満たされることも多い。

でもこの生き方は自分でも気が付かないうちに魂に負担をかけ、心の中に少しづつ妬みや恨み、怒りと言ったネガティブな感情を溜めやすい。

自分の願いを後回しにしていると、願いを叶えた他人が妬ましくなる。
特に日本には、こういう人が多いように思う。

伊勢神宮はなぜ式年遷宮を定期的に行うのか。これは私が思うにだけど、アマテラスに恨みや妬みが溜まるからだと思う。

天照はいつも人の願いばかりを聞いている。もう天照は自分の願いを忘れてしまっているのではないかと思えるほど膨大な人の願いを聞いて、時には叶えてきている。
そんなことばかりしているとおそらく魂が消耗して、神道的に表現すると天照は「荒魂」となってこの国を呪い、恨みをまき散らす存在になってしまうから、遷宮によって定期的に魂をリセットさせる。

一見立派な生き方は魂に負担をかけ、結果的に恨みをまき散らす存在になるなら「自己中」と呼ばれる生き方をしている人のほうが周囲に良い影響を与えるのかもしれない。

自己中と言っても限度はある。明らかに他人を著しく傷つけたり苦しめたるするような生き方は明らかにやめるべきだ。でもそうじゃないならある程度自己中に生きる方が自分が満たされ、他人が満たされる姿を見ても妬みは起こらず、周囲とも一層円満に付き合って行けるのかもしれない。

この記事を書いたら「魔法少女まどかマギカ」のワンシーンを思い出した。

誰かの幸せを望んだ分だけ、誰かを呪わずにはいられない

というセリフが身に染みる。


くのたん
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